アーティストインタビュー

  1. 山田久美子インタビュー(後編):「融合への切望」と、これから向かう先とは

    山田久美子インタビュー(後編):「融合への切望」と、これから向かう先とは
    5月15日から6月14日まで、コスモスギャラリーでオンライン個展「山田久美子展 -融合への切望-」を開催中の山田久美子さん。美大卒業後、日本画家として30年のキャリアを積んだ彼女が、今だからこそ実感している日本画の魅力とは何か。また、これからどんな絵を描いて、どんなことを成し遂げていきたいのか。深く語っていただいたインタビュー、第二弾をお届けします! インタビュー前編はこちら 目次 日本画の奥深さ、植物の持つパワー - 前編で、山田さんが美術大学の日本画学科に入学されたのは、先輩の影響があり、そして受験の課題が水彩だったから、という理由だったと伺いました。 そうですね。日本画がすごく好きだったわけでもなく…。大学に入ってから、日本画の展覧会を結構見て回ったんですよ。でも1年生のときは、油絵みたいだねーという感想で。先輩にも「何にもわかってないね」って言われて(笑)でも前編でもお話したように、日本画は私の性格にすごく合っていて、今では日本画を選んでよかった、と思っています。 私の時代は、日本画も油絵を見習え、といわれていたところがあって。油絵のように構成をしたりとか、そういう教育だったんです、時代的に。だから油絵も勉強しました。油絵の作家さんについても、日本画の作家さんについても勉強しました。 今の時代に日本画を学んだ若い人の作品のほうが、和風なテイストが強いんじゃないでしょうか。今の国際社会の中で、日本画が見直されているらしく。私の時代は、もっと和洋折衷なテイストが強かったと思います。 - 山田さんが受けてきた和洋折衷の教育が、現在の制作スタイルにも現れているのでしょうか。 そうですね。私の作風はやっぱりちょっと洋風だと思うんですよ。薔薇を描くときも、ちょっと影を入れて、油絵っぽい描き方をしたりとかですね。 ただ、この歳になって改めて、日本画ってすごく奥深いな… というのがやっとわかってきました。なんていうんでしょうね… 絵って、宗教が絡んでくるんですよね。 だいたい昔の美術って、宗教がバックにあるんです。西洋も、日本も。西洋ではルネサンスのような、人間万歳、人間賛歌、みたいな芸術が多いじゃないですか。一方で日本はどっちかというと、風景とか、植物とか。万物に神が宿るという考えなので。私もずっと人物ばかり描いていたんですが、最近はやっと、植物も綺麗だなと… 綺麗というか、何かすごいパワーがあるな、って思うようになってきたんですよね。 - そう思うようになってから、どのくらい経つのですか。 もう10年ぐらいですね。実は12、13年前に、私の親友が癌で亡くなったんです。そのときに、薔薇が病に効く、癒しの力がある、という話を聞いたんですね。その話をさらに辿っていくと、フランスのボルドーなどで、ワインを作るためのぶどう畑にも、薔薇を植えているそうなんです。いいぶどうができるように。それで薔薇を描き始めて、もう10年ぐらいになります。 だんだんその薔薇が、今回は桜を描こう、とか、今は蓮に凝ってるんですけど、そんな風にバリエーションが増えてきた。その中で、「華」ってすごいな、って思うようになりました。すごいパワー。少し前までは、人間のいろんな考え方、人間の持っているエネルギーなどにインスピレーションを受けていたんですが、最近は華のほうが… 喋らないのに、何か喋っているような、そういうところに惹かれて。でも人物も諦めきれないので、こういう薔薇人間を描くようになったんですけど(笑) 「おほほ・・・!」山田久美子、2023年 融合への切望 - 山田さんの、薔薇と人間が融合している作品は、本当に唯一無二で印象的です。 私のテーマはずっと、「融合への切望」なんですよ。これは大学院の修了制作のときに作ったコンセプトなんです。相反するものが、磁石みたいにくっつく、というのをテーマにしています。 薔薇人間の作品も融合ですよね。融合して、変容していっている。人間が薔薇になって、薔薇が人間になって。「融合への切望」と、「変容」、というのをテーマに描いています。この本の表紙になった絵も、メタモルフォーゼといって、これも変容なんですよ。寝ている人の肩から蝶の羽が生えて、変身していくような。そういうのが、私は結構好きみたいで。 2010年、小説「あなたから逃れられない」(小池真理子著)の文庫本装丁を担当。 - 「融合への切望」というコンセプトには、どのようにして辿りついたのでしょうか。 修了制作のときに、自分のことをずっと書いていたんですよ、スケッチブックに。どんな修了制作をしようかなと思って、そのときの自分の気になっていたこととか、いろんなことを書いていたんです。そうすると、「赤と青」とか、「女と男」とか、相反するものが好きだということがわかってきて。 修了制作では150号の絵を二枚描いたのですが、ひとつは青い絵で、金の額縁。もうひとつは、赤い絵で、銀の額縁にしました。これ、反対に組み合わせる人が多いんです。「青には銀」という人が多いのですが、私は、青には金、だと思うんです。 二枚並べて、青い絵だけ見ているとちょっと物足りないな… って思って、赤を見たくなる。赤い絵だけを見ているときも、ちょっと物足りなくなって、青い絵を見たくなる…、という計算をして描いたんです。「融合への切望」は、そういうところから始まって。いろんな融合があるじゃないですか。本の表紙になった、人間と虫の融合だったり、人間と華の融合とか。そういう「変容していくもの」というのを、今は描いていますね。 「別世界に行かせてあげられる」絵を描きたい - これまで約30年間、作家活動をされてきた中で、作品はどのように変わってきたのでしょうか。 正直、私の昔の絵の方がいい、と言う人が多いです。だけど、昔の絵には、やっぱり教授の影響があるんですよ。それをね、脱したくて… 脱したいというか、自分の絵を描きたくて。やっぱりどこか洗脳されているんですよね、若い頃に大きな影響を受けるから。 - 山田さんご自身から見て、昔の作品と今の作品の違いはどこにあるのでしょうか。 昔の私の絵は、人間の気持ちとか、人の心をわしづかみするような、パワーがありました。今は、計算しているんですよね。 でも大学時代に描いていたのは、いいモデルさんがいて、それをデッサンして、絵にして… って感じで、やっぱり囲われてるっていうか、「こういうふうに描けばいいんだよ」みたいなものがあって。それに反抗したいわけではないのですが、もう描けなくなっちゃったんです、そんなふうに。今は全然違う描き方をしているし。それに今は今で、作品を良いって言ってくれる人がいるので。 私、結構絵が変わりやすい人間で。ずっと一貫しているように思われるんですけど、全然そうでもなくて。すぐにいろんな要素を取り入れる。だから、時々原点に戻って、何が描きたいのかを整理することがあります。 - 今描きたいもの、は何なのでしょうか。 やっぱり華人間が好きなんですよ。なんというか、擬人化、ですかね。最近の作品は、ちょっと文学っぽくなってきているというか… 文学性を取り入れたいな、という思いが最近あります。 あとは、「癒し」ですかね。先ほどお話したように、薔薇を描き始めたのも、病気を治す、癒し、というところに繋がるからでした。それと私、最近ヨガを習っているのですが、ヨガをやっていると、「蓮」とかのイメージが強くなってきて。 ヨガの先生は、ヨガは最高の癒しだと言うんです。なんだろう、現代社会って、なんやかんやうるさいじゃないですか。ギスギスしてません? そんなストレスを、見たら忘れられるような絵。絵を見ている間は、ちょっと別世界に行かせてあげられる、みたいな、そういう絵を描きたいかな。 蓮を描いた最近の作品のひとつ。「紫のしずく」山田久美子、2024年 これから目指したいこと でももう最近はね、老眼で見えなくなってくるし、どこまで描けるかというのがあって…。やっぱり20代、30代の頃とは同じようには描けないんです。 でも、その頃にはわからなかったことが、今わかってきました。絵をどのように売っていくか、ということとか。若い頃は、頭の中にはてなマークがいっぱいあったんですよ。先生は「こうしなさい」って言うから、それに沿っていくだけなんですけど、「なんでそうするの?」という疑問がいっぱいあったんです。それが、この歳になって少しずつわかってきたというか。 美術界のことも勉強しました。例えば作家にとって、日本の公募展、美術団体に参加する道と、自分で個展をやっていく道は、大きく違うらしくて。学生の頃はそういうことも何も知らずに、公募展に出せ、と言われていて…。それに対して、今では自分の絵に合った道を、自分で見極められるようになってきました。どちらかといえば、個展をやったり、海外に出していくほうが向いているのかな、と今は思っています。 - これから挑戦していきたいことはありますか。...
  2. 山田久美子インタビュー(前編):これまでの歩み - やりたいことがあるなら、やればいい

    山田久美子インタビュー(前編):これまでの歩み - やりたいことがあるなら、やればいい
    5月15日からコスモスギャラリーにて、オンライン個展「山田久美子展 -融合への切望-」を開催中の日本画家、山田久美子さん。プロフィールの文章だけではわからない、彼女の辿ってきた道、乗り越えてきた困難を、インタビューの中でじっくり語っていただきました。他にも、30年のキャリアを通じて培った作家哲学、今後描いていきたいものなど、深く掘り下げた内容を、前編・後編の2回にわたりお送りいたします! 目次 漫画家志望から、日本画の道へ - 山田さんは、おいくつの頃から絵を描き始めたのですか。 私は元々漫画家になりたくて。だから、もう3歳ぐらいから漫画を書いていました。自由帳に自分で枠を引いて漫画を描いたり、子どものお小遣いではスクリーントーンも買えないから、薄墨を使って描いたりしていて。 10歳くらいの時にコンクールに応募しようと思ったのですが、ケント紙など必要なものが買えなくて、挫折したことがあるんです。その後中学に入ったら、周りの上手な子たちと自分を比較して、なおさら挫折して。それで中学2年生くらいのときに、漫画家の道は諦めたんですよ。 - そこから美大に入るまで、どのような経緯があったのですか。 中高一貫校に通っていたので、受験のプレッシャーもなく、のほほんと過ごしていて… その頃は占いに凝ってましたね(笑)そこから心理学とか、哲学とかに興味を持つようになって。大学でそういう分野を学ぼうかと思ったのですが、その頃は学べる学科があまりなくて。 そんな中、たまたまみんなで進路の話をしていたときに、ひとり「私、美大に行くの」と言った子がいて。それを聞いて、「あ、美大いいな。私、絵好きだし…」と思って、それだけで入ったんです(笑) - 美大の中でも、日本画を専攻された理由は何だったのでしょうか。 美大に行くと決めたとき、母の勧めで、神戸の実家に近い受験予備校に通ったんです。そこで出会った先輩で、武蔵野美術大学の日本画学科に入った方がいらっしゃって。その方の絵が結構好きで… なんかいいな、日本画にしようかな… っていう、また安直な理由で(笑) デザイン科とか油絵科とか、いろいろな科も見たのですが。関西ではどの科も水彩で受験するので、予備校でも水彩のコースしかなかったんです。東京では、例えば油絵科は油絵で受験するのですが。水彩で受けられる東京の大学というと、日本画学科だったので、それで選んだというのもあります。 - 周りの方の影響を受けながら、進路を選んでいったのですね。 そうですね。でも今思えば、日本画を選んでよかったと思います。途中までは、油絵科に行ったらよかったかな、とも思っていたんですが…。日本画は、水を使う、水で偶然性を現す、というところがいいなと思っています。あと、色がすごくきれい。それに、油絵でダイナミックに描くよりも、日本画のコツコツ描く感じが私の性格に合っているなと思います。 日本画では、岩絵の具(様々な鉱物を粉末状にした絵の具)を、膠(動物のゼラチンから作られる糊)と混ぜて練り、水に溶いて描く - これまで山田さんは、人物画を多く描かれてきたと思いますが、それは学生時代から始まっていたのでしょうか。 もう、予備校の頃からですね。私、実は武蔵美じゃなくて多摩美に行きたかったんですよ。それで多摩美の受験の課題が、人物だったんです。なので本当に毎日特訓して、人物ばっかり書いてて。その日の予備校が終わったら夕方のクロッキー会に行って、またヌードを描く…みたいな生活。それをずっと繰り返していたら、先生に「もうやめろ」って止められるぐらいでした(笑) 確かに子供の頃から絵は好きだったのですが、予備校や大学では「好き」というレベルを超えて、もう夢中でしたね。大学生活では、絵を描いて、バイトに行って、家に帰った後、夜中の1時とかにまたアトリエに忍び込んで描く、みたいな… - すごいですね…!そこまで山田さんを駆り立てるものは、何だったのでしょうか。 うーん… 何だったんだろう。当時の教授に、なにかしました(洗脳とか)?って聞いたら、「した」って言うんですよ(笑) でも、やっぱりすごく楽しかったんでしょうね。先ほどお話したように、日本画が私に合っていたというのもあって、楽しかったんだと思います。だから、ずっと描いていましたよ。 - 楽しい中で、大変なことや辛かったこともあったのでしょうか。 お金、ですね…。美大の学費とか材料費とか、すごく高くて。美大って、お金持ちのお子さんもいっぱいいるんですよ。その中で、新聞配達をしながら通っているような人もいたんですが、やっぱりお金が払えなくて中退してしまったり。私もそんなに裕福な家庭ではなかったので、バイトしながら通っていました。みんなが描いている時でも、私はバイトに行かなきゃいけない。それがすごく悔しかったですね。 バイトは、シャンソニエ(シャンソンを歌うライブハウス)でウェイトレスをしていました。女優さんもいらっしゃるような、すごく良いお店で。今でもその当時に知り合った方とは交流があって、個展に来てくださったり、作品を購入してくださったりしています。 駅の階段も登れなくなった時のこと - 卒業後の進路については、いろいろと考えながら決めていったのでしょうか。 考えてなかったですね(笑) 美大にいるとき、就職活動をしなかったんです。3月に卒業した後も、5月までシャンソニエでバイトしてて。でもそのお店が、近隣にモノレールが建設された関係で閉店してしまったんです。 それで10月くらいまではプータローでした。どうしようかと思って、美大で絵のモデルのバイトをしたり、模写をしてお金をもらったり、夜にホステスをやったりもしていたのですが…。本当にね、今月の収入ゼロ!ということもあったんですよ。もう、家賃も払えない!みたいな。 そんな中、大学から「バイトしませんか」と声がかかったんです。それが、額に入った浮世絵を外して、紙に挟む、っていうバイトだったのですが、その仕事を発注した会社にのちに就職できることになりました。その会社の社員さんに、「学芸員資格持ってる人いない?」と聞かれて。「私、持ってます!持ってます!!」と藁にもすがる思いで、強引に入りました(笑)だってその時、お米も買えなかったんですもん。 それで入れてもらった恩返しもあるし、一生懸命働こうと思って。ただ、1年目は品川区まで通勤していたんですが、東京の郊外に住んでいたので、あんな都心に行くと精神がピキピキしちゃって眠れなくなってしまって…(苦笑)それで通勤電車で倒れたりとか、結構ひどい目にあっていました。それでも何だかんだで10年ぐらい勤めました。 もちろん絵をやめるつもりで就職したわけではなかったんです。その会社が運営していた美術館に勤めていたのですが、そこの開館が10時から16時で、これなら残業がなければ絵が描ける、と思っていたんです。そしたら、自分の勤務時間は9時から18時で、しかも残業もバリバリあって(笑)それで一時期は仕事にハマって、講演会をしたり、学芸員として名を馳せていたんですが、やっぱりまた絵を描きたくなってきて。 就職して4年目くらいから、また絵を描き始めました。その頃は仕事が少し落ち着いてきて、19時くらいに終わるようになったので、仕事を終えてから一度帰って寝て、夜中の2時に起きて、それから朝まで絵を描いて、また会社に行く… という生活をしていました。そうしていたら、体を壊してしまって…。会社に行けなくなってしまったんです。もう、駅の階段も登れない。それが32、33歳くらいのときですね。 やりたいことがあるなら、やればいい それから1年休職して、復帰しようかなと思ったんですけど、当時の夫が「やめろ」と。 「やりたいことがあるならやればいい」って言われたんです。「お金のことばっかりやっていかなくても、お金なんて何とかなるから」って。だからといって、別に夫が養ってくれるわけじゃないんですよ(笑)自分で稼げと言っていたのですが。でも、やりたいことがあるならやった方がいいんじゃないか、って。 私の母は、初めは「会社に戻りなさい」と言っていたんです。一流企業だし、給料もすごく良かったので。でもそのうち、「そんな病気になるぐらいだったら絵を描いたほうがいいんじゃない」と言ってくれて。 それからはしばらく仕事を転々としていました。派遣会社に入ったり、コールセンターで働いたり。その頃から、朝日カルチャーセンターで絵画教室も始めました。土曜日だけカルチャーセンターで絵を教えて、あとはコールセンターで働いてたんです。でもコールセンターは、クビになって… (笑) - ク、クビ…!? 私、わかんないんですよ、言ってることが、日本語が…!(笑)電話をかけてきた方に、あれをあれしてくれるか?って聞かれて、「あれって何ですか?」って聞けなかったんですよ…。それでもう勘違いの嵐で、毎回クレームきちゃって… マニュアル通りにやればいいんですけど、私、マニュアルも苦手で。それで上の人も、この子だめだなって… 契約を切られてしまって。 でもその頃、仕事と並行して、自分の作品の個展もやっていたんです。個展に来てくださった国立の画廊の方が、「うちにも来て」って名刺をくれて。それで、絵画教室をやりたいです!って言ったら、うちのギャラリーでやっていいよ、と言ってくれました。そこから本格的に、絵画教室の先生としての生活が始まりました。 絵画教室と、作家活動の両立について...

2 件

© 2021- COSMOS GALLERY