山田久美子インタビュー(前編):これまでの歩み - やりたいことがあるなら、やればいい
5月15日からコスモスギャラリーにて、オンライン個展「山田久美子展 -融合への切望-」を開催中の日本画家、山田久美子さん。プロフィールの文章だけではわからない、彼女の辿ってきた道、乗り越えてきた困難を、インタビューの中でじっくり語っていただきました。他にも、30年のキャリアを通じて培った作家哲学、今後描いていきたいものなど、深く掘り下げた内容を、前編・後編の2回にわたりお送りいたします!
目次
漫画家志望から、日本画の道へ
- 山田さんは、おいくつの頃から絵を描き始めたのですか。
私は元々漫画家になりたくて。だから、もう3歳ぐらいから漫画を書いていました。自由帳に自分で枠を引いて漫画を描いたり、子どものお小遣いではスクリーントーンも買えないから、薄墨を使って描いたりしていて。
10歳くらいの時にコンクールに応募しようと思ったのですが、ケント紙など必要なものが買えなくて、挫折したことがあるんです。その後中学に入ったら、周りの上手な子たちと自分を比較して、なおさら挫折して。それで中学2年生くらいのときに、漫画家の道は諦めたんですよ。
- そこから美大に入るまで、どのような経緯があったのですか。
中高一貫校に通っていたので、受験のプレッシャーもなく、のほほんと過ごしていて… その頃は占いに凝ってましたね(笑)そこから心理学とか、哲学とかに興味を持つようになって。大学でそういう分野を学ぼうかと思ったのですが、その頃は学べる学科があまりなくて。
そんな中、たまたまみんなで進路の話をしていたときに、ひとり「私、美大に行くの」と言った子がいて。それを聞いて、「あ、美大いいな。私、絵好きだし…」と思って、それだけで入ったんです(笑)
- 美大の中でも、日本画を専攻された理由は何だったのでしょうか。
美大に行くと決めたとき、母の勧めで、神戸の実家に近い受験予備校に通ったんです。そこで出会った先輩で、武蔵野美術大学の日本画学科に入った方がいらっしゃって。その方の絵が結構好きで… なんかいいな、日本画にしようかな… っていう、また安直な理由で(笑)
デザイン科とか油絵科とか、いろいろな科も見たのですが。関西ではどの科も水彩で受験するので、予備校でも水彩のコースしかなかったんです。東京では、例えば油絵科は油絵で受験するのですが。水彩で受けられる東京の大学というと、日本画学科だったので、それで選んだというのもあります。
- 周りの方の影響を受けながら、進路を選んでいったのですね。
そうですね。でも今思えば、日本画を選んでよかったと思います。途中までは、油絵科に行ったらよかったかな、とも思っていたんですが…。日本画は、水を使う、水で偶然性を現す、というところがいいなと思っています。あと、色がすごくきれい。それに、油絵でダイナミックに描くよりも、日本画のコツコツ描く感じが私の性格に合っているなと思います。
- これまで山田さんは、人物画を多く描かれてきたと思いますが、それは学生時代から始まっていたのでしょうか。
もう、予備校の頃からですね。私、実は武蔵美じゃなくて多摩美に行きたかったんですよ。それで多摩美の受験の課題が、人物だったんです。なので本当に毎日特訓して、人物ばっかり書いてて。その日の予備校が終わったら夕方のクロッキー会に行って、またヌードを描く…みたいな生活。それをずっと繰り返していたら、先生に「もうやめろ」って止められるぐらいでした(笑)
確かに子供の頃から絵は好きだったのですが、予備校や大学では「好き」というレベルを超えて、もう夢中でしたね。大学生活では、絵を描いて、バイトに行って、家に帰った後、夜中の1時とかにまたアトリエに忍び込んで描く、みたいな…
- すごいですね…!そこまで山田さんを駆り立てるものは、何だったのでしょうか。
うーん… 何だったんだろう。当時の教授に、なにかしました(洗脳とか)?って聞いたら、「した」って言うんですよ(笑)
でも、やっぱりすごく楽しかったんでしょうね。先ほどお話したように、日本画が私に合っていたというのもあって、楽しかったんだと思います。だから、ずっと描いていましたよ。
- 楽しい中で、大変なことや辛かったこともあったのでしょうか。
お金、ですね…。美大の学費とか材料費とか、すごく高くて。美大って、お金持ちのお子さんもいっぱいいるんですよ。その中で、新聞配達をしながら通っているような人もいたんですが、やっぱりお金が払えなくて中退してしまったり。私もそんなに裕福な家庭ではなかったので、バイトしながら通っていました。みんなが描いている時でも、私はバイトに行かなきゃいけない。それがすごく悔しかったですね。
バイトは、シャンソニエ(シャンソンを歌うライブハウス)でウェイトレスをしていました。女優さんもいらっしゃるような、すごく良いお店で。今でもその当時に知り合った方とは交流があって、個展に来てくださったり、作品を購入してくださったりしています。
駅の階段も登れなくなった時のこと
- 卒業後の進路については、いろいろと考えながら決めていったのでしょうか。
考えてなかったですね(笑)
美大にいるとき、就職活動をしなかったんです。3月に卒業した後も、5月までシャンソニエでバイトしてて。でもそのお店が、近隣にモノレールが建設された関係で閉店してしまったんです。
それで10月くらいまではプータローでした。どうしようかと思って、美大で絵のモデルのバイトをしたり、模写をしてお金をもらったり、夜にホステスをやったりもしていたのですが…。本当にね、今月の収入ゼロ!ということもあったんですよ。もう、家賃も払えない!みたいな。
そんな中、大学から「バイトしませんか」と声がかかったんです。それが、額に入った浮世絵を外して、紙に挟む、っていうバイトだったのですが、その仕事を発注した会社にのちに就職できることになりました。その会社の社員さんに、「学芸員資格持ってる人いない?」と聞かれて。「私、持ってます!持ってます!!」と藁にもすがる思いで、強引に入りました(笑)だってその時、お米も買えなかったんですもん。
それで入れてもらった恩返しもあるし、一生懸命働こうと思って。ただ、1年目は品川区まで通勤していたんですが、東京の郊外に住んでいたので、あんな都心に行くと精神がピキピキしちゃって眠れなくなってしまって…(苦笑)それで通勤電車で倒れたりとか、結構ひどい目にあっていました。それでも何だかんだで10年ぐらい勤めました。
もちろん絵をやめるつもりで就職したわけではなかったんです。その会社が運営していた美術館に勤めていたのですが、そこの開館が10時から16時で、これなら残業がなければ絵が描ける、と思っていたんです。そしたら、自分の勤務時間は9時から18時で、しかも残業もバリバリあって(笑)それで一時期は仕事にハマって、講演会をしたり、学芸員として名を馳せていたんですが、やっぱりまた絵を描きたくなってきて。
就職して4年目くらいから、また絵を描き始めました。その頃は仕事が少し落ち着いてきて、19時くらいに終わるようになったので、仕事を終えてから一度帰って寝て、夜中の2時に起きて、それから朝まで絵を描いて、また会社に行く… という生活をしていました。そうしていたら、体を壊してしまって…。会社に行けなくなってしまったんです。もう、駅の階段も登れない。それが32、33歳くらいのときですね。
やりたいことがあるなら、やればいい
それから1年休職して、復帰しようかなと思ったんですけど、当時の夫が「やめろ」と。
「やりたいことがあるならやればいい」って言われたんです。「お金のことばっかりやっていかなくても、お金なんて何とかなるから」って。だからといって、別に夫が養ってくれるわけじゃないんですよ(笑)自分で稼げと言っていたのですが。でも、やりたいことがあるならやった方がいいんじゃないか、って。
私の母は、初めは「会社に戻りなさい」と言っていたんです。一流企業だし、給料もすごく良かったので。でもそのうち、「そんな病気になるぐらいだったら絵を描いたほうがいいんじゃない」と言ってくれて。
それからはしばらく仕事を転々としていました。派遣会社に入ったり、コールセンターで働いたり。その頃から、朝日カルチャーセンターで絵画教室も始めました。土曜日だけカルチャーセンターで絵を教えて、あとはコールセンターで働いてたんです。でもコールセンターは、クビになって… (笑)
- ク、クビ…!?
私、わかんないんですよ、言ってることが、日本語が…!(笑)電話をかけてきた方に、あれをあれしてくれるか?って聞かれて、「あれって何ですか?」って聞けなかったんですよ…。それでもう勘違いの嵐で、毎回クレームきちゃって… マニュアル通りにやればいいんですけど、私、マニュアルも苦手で。それで上の人も、この子だめだなって… 契約を切られてしまって。
でもその頃、仕事と並行して、自分の作品の個展もやっていたんです。個展に来てくださった国立の画廊の方が、「うちにも来て」って名刺をくれて。それで、絵画教室をやりたいです!って言ったら、うちのギャラリーでやっていいよ、と言ってくれました。そこから本格的に、絵画教室の先生としての生活が始まりました。
絵画教室と、作家活動の両立について
- 絵画教室を始めたときの心境はどうでしたか。
1年間、誰も来なかったんですよ。朝日カルチャーセンターでは生徒さんが2人いたんですけど…。国立のギャラリーで始めたときは、1年間誰も来なくて。そのうち私がホームページを作り出して、そこからは少しずつ増えてきました。
- 今では絵画教室の場所をご自身のアトリエに移し、絵画教室と作家活動の二本柱で活動されていらっしゃいますが、悩んでいることなどはあるのでしょうか。
今の悩みとしては、作家活動との両立が大変ですね。切り替えが大変ですし、中には、私が絵を教える傍らで作家活動をしていることを快く思わない生徒さんもいました。
でも、絵画教室をやっていて良かったこともたくさんあります。私はかなり楽しんで教室をやっているんですよ。いろんな人に出会えるし、いろんな人が一生懸命描いていて、パワーをもらえるし。
家でずっと一人で絵を描いてると、ちょっと気が狂いそうになるんですよ(笑)ちょっとガラが悪くなるっていうかね…(笑)でも生徒さんが来てくれると、あらこんにちは〜!みたいな感じで、社会性が出てくる(笑)
あと、教えることによって学ぶ、みたいなところがあって。いろんな技法などについて、生徒さんから質問があったことについて調べて、それを生徒さんに教え直すというか。そういうことで知識が増えていますね。やっぱり美大を出たくらいじゃ、日本画なんてね、できないんです。深いんですよ、日本画って…。
美大で教えてもらったこと
私は、日本画の本も出しているじゃないですか。あの内容もほとんど美大では教えてもらっていなくて、全部独学なんですよね。
美大で何を教えてもらったかといったら、「芸術」。日本画とかじゃなくて、「芸術」です。芸術とはこういうものだ、みたいな。
- なかなか言葉では言い表しにくいかもしれませんが、「芸術」とはどういうものなんですか。
何か、目に見えないパワーを持った絵を描け、みたいな…。
それだけで学費を何百万もとってー… ってブーブー言っている人はいますね(笑)
- (笑)でもきっと良い芸術って、技法や知識で価値が上がる部分もありつつ、何かその枠組みを超えた、理屈ではない何かがあるんですよね。
そうですね。技術ってどんな人でも、描き続けていれば、絶対ついてくるんですよ。だけど、「芸術とは何か」について教えてもらえるのは、美大でしかないんですよ。絵で食っていけるか、とかではなくて… 芸術とはこういうものだって、あくまで既成概念なんですが、それを学べるところって、美大以外にあまりないんじゃないかと。
それがいいのか悪いのかわかりませんけどね。実際にそれを学んでも、美大を出てから美術の世界に残っている人って、本当に少ないから。私の代で生き残っている人は、一人は教授になって。一人は私で、もう一人、インターネット等で活動している方がいます。
私も恩師に、50歳までやってこれたんだからいいんじゃないって言われました。すごいことだよって。
山田久美子さんが語る、日本画の奥深さとは。また、今描きたいものは何か、作家として目指していることは何か。後編では、山田さんの作家哲学により深く触れていきます。お楽しみに!
山田久美子さんのオンライン個展は、6月14日まで開催中です。